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わたしは思考ではない
これは 観念でも 理解でも そう言い聞かせて生きることでもなく
そのあらわれにプログラムされていれば エネルギーの変異で 明らかになってくること
それが明らかになっても
思考がなくなったり
聖人君子になったり
好みがなくなったり
まったく物語に巻き込まれなくなったり
色んな気持ちが沸き起こらないということではなく
あらゆることは起こってきます
ただ 時に その起こってくることを個人的にとらえる収縮した感覚がうすれる副産物として
あたまで作り出す物語が本当ではない気づきがあったり
時に物語に巻き込まれても
巻き込まれることに巻き込まれず
深刻さはうすれ
人生はシンプルに
それは 個人的なわたしがなにか努力して成るものではなく
個人的なわたしではないところから
もともと ずーっとあった それ が明らかになる
映画に例えると
誰もが 映画の主人公ではなく
映画で起こってくる出来事でもなく
映画が映し出されている スクリーンなのだ
主人公がそれに気付くのではなく
ずーっとあった
スクリーン自体が明らかになる
わたしが
スクリーンを明らかにしょうと目指したり
わたしが今以外のなにかになろうと
努力すればするほど
主人公が強化され
スクリーンが覆いかぶさってしまう
なんて パラドックス!
なーんだ!
主人公のわたしを改善しないと!
スクリーンを見つけないと!
いつもスクリーンにいないと!
ってがんばってきたけど
はじめからスクリーンだったんだ
そして ストーリーではあたかも個人的に何かを為したり 思ったりしてるようで
個人的に何かをしたり思ってる人はいなくて
すべては全体という脚本だったのか
本当にあるものはスクリーンだけだったんだ
そして映画はつづいていく